建 部 清 庵 って ど ん な 人 ?
建部清庵は江戸時代中期の
一関藩・藩医です
 建部家は代々一関藩の藩医を勤める家柄で、初代から五代目まで「清庵」を名乗ってます。清庵の里で顕彰しているのは二代目清庵で、諱は由正(よしまさ)。

飢饉で餓死する人を
一人でも多く救いたい!
 宝暦5年(1756年)の奥州飢饉に際し、飢えに苦しむ人の命を救うのが医者としての責務と考え、日本初の救荒書と言われる「民間備荒録」を著し、万が 一の時、食料や燃料にできる四木一草(柿、栗、桑、棗、菜の花)を家屋敷やその周辺に植えて、飢饉に備えるようにと薦めました。
 「民間備荒録」には、野草の可食部や毒の有無、無毒化の方法も示し、飢饉時の食中毒の防止にも力を注ぎました。
 また、天保4年(1833年)には、文字の読めない人々のために、救荒植物を絵図で記した「備荒草木図」を著し、その後の飢饉で多くの人を餓死の危機から救いました。

江戸の杉田玄白と
医学について意見交換
 安永2年(1773年)、清庵が書いた蘭方医学についての質問状が杉田玄白の元に届けられました。玄白は清庵の見識の深さに感銘し、以後、親しく手紙での交際が続けられました。
 のちに大槻玄沢、杉田伯玄らが、この書簡のやり取りを一冊にまとめ、「和蘭医事問答」として上梓。蘭学や医学を学ぶ人々の指針として役立てられました。

一関に過ぎたるものが二つあり
時の太鼓と建部清庵
 江戸時代、太鼓で時を告げることが許されたのは、徳川御三家などごく限られた藩のみでした。伊達藩の内分分知で、石高わずか三万石の一関藩が、時の太鼓を許されているのは、当時としては過分なことであり、一関藩としても誇らしいこととしていました。
 同じように、建部清庵も小藩にありながら、深い見識と絶妙な医術で多くの命を救い、また、数多の医師を育成した功績により、「過ぎたるもの」と賞賛されています。

清庵の子供・弟子など
・初代 建部清庵(元水)
   初代 清庵。江戸の医師。
   田村公に請われ一関藩藩医と
   なった。
・三代 建部清庵(由水)
   由正の次男。家督継承。
   大槻玄沢と終生親交を結ぶ。
・杉田伯玄(建部由甫)
   由正の五男・杉田玄白の養嗣子。
・大槻玄沢
   清庵の弟子。芝蘭堂を開き、多く
   の弟子を育成。蘭学の入門書「蘭
   学階梯」を著す。
・衣関甫軒
   清庵の弟子。清庵に託された手紙
   を玄沢に届けた。

釣山 清庵野草園
 清庵の著作に掲載されている植物の一部が、市内にある釣山公園の一角に植えられ、清庵野草園と命名されました。




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